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映画批評.評論.藤村隆史
「アバター(3D版)」ジェームズ・キャメロン 他者の排除について 2009.12.25
「たまてばこ」に、『成瀬論文を書くまでサイトは更新しない』と確かに書いたが、論文も大方目処がつき、一息ついたのでちょいとだけ「アバター」を書いておきたい。
大衆消費社会とは「前」の世界である。人々は「前」に出ていかなければ誰にも相手にされず、仮に認知されていたとしても見殺しにされてしまう、それが高度大衆消費社会の空間的実情である。人はこぞって「前へ、前へ」と運動を持続させなければならない。だが「前へ前へ」と出て行く現象は、決して豊かさとしての前進だけではなく、多分に経済原理や欲望に支配された現代型神経症の一種とも言えるだろう。私もそれを免れてはいない。
3Dによって画面が「さらに前へ飛び出す」とき、それは「豊かさ」へ直結するという思考回路は余りにも危険である。もちろんそのすべてが「後退」であるというつもりもないが、「前」が迫り出した以上「奥」はどうなったかを見て行かなければ空間を語ることは出来ない。その結果を簡単にいえば、画面が「前」に出た分だけ「奥」が消えている。予想通りといえばそうだが、「アバター」の画面は3Dと謳う割にはちっとも「厚く」はなっておらず、画面が「前へ」と飛び出した分、費用対効果でちゃんと「奥」が消されている。本質的には「ロードオブザリング」と何ら変わらない『平面映画」である。高度大衆消費社会とは「前」の社会であって「奥」を「前へ」と取り込む社会である。「アバター」の飛び出す画面は「前」を促進させても決して「奥」を彩ろうとはしていない。ロングショットは別として、フルショット、ミドル、バスト、そしてクローズアップになると、殆ど画面には「前の一人」しか存在しなくなる。他の者たちはボヤけた画面の中で、まったく生きることも見ることも禁じられており、ステレオタイプとしてロボットのように佇んでいる。「放っておかている」のではない。「存在しない」のである。どれだけ物語で「他者」を描いたところで、瞬時に画面が「他者性」を自己否定してステレオタイプへと取り込んでゆく。この映画は、高度大衆社会の典型として成り立っている。
どんどん前に出て来れば来るほど、それに比例して「奥」が消えて行くのは大衆社会では当たり前の出来事であり、これからどんどんメディアは「前へ前へ」と出て来ることの代わりに「奥」を排除することを加速するだろう。
「前」とは均質的な空間であり、そこで出来事は悉くステレオタイプと化し、人も顔もコードの中へと取り込まれてゆく。
対して「奥」とは「他者」と並存する異質的空間である。それだけでは決して均質化されず時として「他者」そのものが亡霊のように露呈してしまう恐ろしい空間でもある。社会はそれを何とかして、「前」を主とした均質的な遠近法の中へ「奥」を「従」としてと取り込もうとするか、あるいはこの「アバター」のように、画面をどんどん「前へ前へ」と迫り出す事で、「他者」を「奥へ奥へ」と果てしなく追いやり消し去ってしまうか、あるいは「他者」が「前へ」と躍り出ることの代償として「他者性」を放棄させ、大衆社会に取り込んでゆくかのどれかである。
そうして「前」を中心として撮られた画面の中には、いつもいつもステレオタイプとしての「同じ顔」が支配し続け、決してそれは「背後」にも「奥」でもなく、常に「前」にいる。我々は彼らのコード化された顔の背後の人格を「読むこと」で安心するのだ。
CG等によって描かれている原住民の顔の刺青(?)の模様は、人間の「化粧」とは異なった異質性を暴露しており、親しみやすさとしてのコード化(ステレオタイプ化)された顔を拒絶しているようではあるものの、それが常に「前」にあることで、ステレオタイプを免れてはいない。会話は簡単に「通訳」されてしまい、最早人間と原住民とは「いつかは分かり合える同胞」として描かれていても決して「絶対に分かり合えない他者」としてスタートしてはいない。そこには、現代において「他者」に何かを伝えるためには命を投げ出すしかないことを描いた「グラン・トリノ」のような恐ろしさ(奥)は微塵も存在していないのである。あるのは「物語としての他者」のみであり、あらゆる瞬間に「アバター」の平面の画面は物語の「他者性」を自己否定しながら進んでゆくのである。
深度を深くして縦の構図で撮れとか、パンフォーカスで行け、とか、そんな物理的なことを言っているのではない。一見「他者」を描いているようでありながら、実はちっとも人間を「他者」として撮っていない、大衆消費社会の恐怖について考えてみたいのだ。しゃべっていることと、露呈していることとが余りにも違うのである。
3D映画それ自体の可能性については、抗おうとしても無理だろう。行くしかない。
映画研究塾、藤村隆史。2009.12.25